南極観測

国際南極観測
日本南極地域観測隊
(JAPAN ANTARCTIC RESEARCH EXPEDITION)戦後ただ一度だけ、日本中の企業と学者、そして、国民がその力を結集させてのぞんだ壮大なプロジェクトがある。昭和31年に始まった第一次南極観測である。

1957-1958年に計画された国際地球観測年(IGY)では、未知の世界だった南極大陸を各国が協力し、観測・調査を実施することが、大きな目的になっていました。第二次世界大戦が終わって10年、昭和30年代敗戦国日本がようやく国際社会に復帰をはじめたころでした。主食の米も十分でなかったこの時代に、日本の関係者はこの国際共同観測の大事業に参加することを決めたのです。日本は失いかけた自信を取り戻すべく、人々はがむしゃらに働き、経済を立て直していた。しかし、世界からは 「 マネをする国 」 「 敗戦国 」 とレッテルが貼られていた。その頃、世界各国で地球観測の動きが活発になっていた。アメリカ、ソ連など戦勝国を中心に 「 国際地球観測年特別委員会 」 が設置され、未知の大陸 「 南極 」 観測が計画される。アジア諸国で唯一参加を表明した日本は、「 敗戦国の日本 」 に何ができるんだと世界から罵倒され、そして、日本に割り当てられた観測場所は、“インアクセサブル・接近不可能” な場所だった…。そこは氷点下50度、風速100メートルのブリザードが吹き荒れる最悪の場所、全く期待されていなかったのだ。「 今こそ日本人の底力を見せてやろうじゃないか。日本が外国に頼らず、自分の足で立って生きていく姿を世界に示すんだ 」それまで外国の背中を見つめてきた日本が、世界と肩を並べる時がきた。しかし、国や企業は資金援助には後ろ向きだった。それを後押ししたのは、日本の未来に大きな夢と希望を抱いた子供たちだった。
「 僕のお小遣い使って!」 5円玉を握りしめた子供たちからの募金が全国各地から集まったのだ。あの頃のタイガーマスクは日本の未来を信じた子供たちだったのかもしれない。こうして日本の南極観測は 「 国際社会復帰の一大プロジェクト 」 になった。しかし、前人未踏の大陸は南極越冬隊に容赦なく牙をむいた。そんな越冬隊を支え心の拠り所になったのが、19頭の樺太犬だった……。

南極地域観測総合推進本部が文部科学省(以前の文部省)に設置されました。日本が基地を設けるために割りあてられた大陸沿岸域は人跡未踏の地でした。ノルウェー語の地名のついた地域ではありましたが、それは1937年、水上飛行機から撮影された写真をもとに名づけられたものです。何もかもが手探りの状態で、昭和31年(1956年)11月8日東京港晴海埠頭を出港した宗谷は松本満次船長、東京大学理学部教授永田武を第一次南極観測隊長に、探検家のカリスマ、東芝の技術者でもあり、山男であり、雪山賛歌の作詞者でもあつた、西堀栄三郎が副隊長、(第一次南極越冬隊隊長)観測隊員、乗組員を乗せて2万キロかなたの未知なる大陸へ船出した.。宗谷は数々のアクシデントを乗り越えて昭和32年(1957年)1月南極大陸に到着、1957年1月29日、オングル島に上陸した観測隊は、基地を「昭和基地」と命名した。当時は戦後の復興時期でもあり、日本の科学技術等を世界にアピールすべき国家的大事業でした。日本国政府、民間企業、国民参加で、希望と、平和と、復興を夢みての南極観測を応援しました。当時予算も少なく船もなく廃船間近の海上保安庁の灯台補給船の【宗谷】4,849トン第二次世界大戦で南洋で輸送船として活躍をして再三の空撃、魚雷を受けながら無事終戦を迎えた「運の良い船」を砕氷船に改造修理しての南極への就航でした。修理設計は戦艦大和を設計した牧野茂が担当しました。改造修理したのは横浜の小さな浅野ドック、造船所でなく船の修理工場であった、しかし技術は日本一であった。横浜の造船職人を集めての時間が無く不眠不休で改造修理にあたり納期に間に合わせた。南極はー50度、100mのブリザードの吹く中での観測、生活には、無線機はすぐにバッテリが上がるので南極で使えるバッテリーの受信機を東京通信工業所がトランジスターラジオの技術をいかして盛田昭夫、井深大が無償で提供した現在のSONY。オイルの凍らない風力発電機を本田宗一郎が開発してお金は受け取らなかった現在のHONDA、住宅はー50度の世界では鉄、釘は使えないので日本伝統の木組みによる組み立て式住宅を、壁は檜の板を6枚合わせたパネルの壁で断熱を考案した、東京タワーを建設した竹中工務店が作り上げた。現在利用されているプレハブ住宅の原型になった。現在の冷凍食品は南極で考案された。食料品、日用品、観測機器、住宅、衣類まで1,000社が協力して研究、開発の結果、南極で使用出来る商品、機器、機材が活躍、利用された。現在我々が利用、使用している物にも当時開発された製品も多い。1957年2月第一次越冬隊を昭和基地に送り込み帰国の途についた【宗谷】は北上の途中で密群氷に阻まれ航行が困難になりました。この事態に対して南極本部は米国及びソ連(現在のロシア)に【宗谷】の救援要請を行いました。1957年2月28日、運良く氷状が好転する兆しをとらえて、何とか【宗谷】は自力で脱出を試み外洋迄5qkの地点にたどり着いた時に、ソ連の砕氷艦【オビ号】が現れ水路を広げてくれることにより、【宗谷】は氷海より脱出することが出来ました。氷海を出る事が出来た宗谷はいつまでも、いつまでも南極昭和基地とオビ号に向かって汽笛を南極の空にならし続けていました。また【宗谷】と【オビ号】の話題は、戦後史に残るエピソードとして語り継がれているのではないでしょうか?昭和32年(1957年)。2月14日には第一次南極越冬隊隊長西堀栄三郎と観測隊員による、11名での初めての越冬隊生活が始まった。越冬中は想像を絶する大自然の極寒の中で、テントの小屋はブリザードに飛ばされ、食料品は流氷に2/3が流され、アザラシ、カモメを食料にしながら、観測用に建てた小屋はストーブの火で小屋と観測機器が全焼しながらも翌年宗谷の迎えを待ちながら観測を続けた。昭和32年(1957年)年10月第2次越冬隊員を乗せて、そして第一次南極越冬隊を迎えに、東京を出港した宗谷は南極まで近づきましたが、昭和基地から200KMで前途を南極の厚い氷に阻まれ1カ月間前進出来ず日数が経過、遂に接岸を断念の決定を下し少しの晴れ間をみつけて片道200KM、1時間かけてセスナ機を飛ばして第一次越冬隊員11名を昭和基地から宗谷へ救出を行い、活躍した樺太犬15頭を昭和基地から救出できずに残して、第二次南極越冬観測を中止して宗谷は帰国の途に着きました。途中その年の海の氷は厚く立ち往生となり、宗谷の能力では1日数メートルの航海を余儀なくされ宗谷はローリング、ピッチング、前進、後退、それでも前進出来ないのでダイナマイトを氷の海に仕掛け爆破を続けながらの航海でした。南極の夏の氷といえども宗谷の能力を超えた状態となっており1メートルも前進、後退する事がでくなくなりました。既に短い南極の夏は終わろうとして天候も秋型に変わりつつありました。苦戦の末運良く自力で氷海を出る事が出来た宗谷は途中南アフリカ南端のケープタウンに寄港して、休養と、燃料、食料の補給を行いインド洋を北上、赤道を通過して北半球にそして東京に帰港した、宗谷のホワイトとオレンジイエローの鮮やかなツートンカラーの船体の色は、はげ落ちて、サビつき氷海との戦いの傷跡の痛ましい姿で東京港晴海埠頭へ帰ってきました。2年連続の氷海での苦戦の反省から、約半年かけて宗谷の推進力を上げるスクリュウの改善、へりー空母式に改造、船首の一本マストを鳥居型のマストに変更修理して昭和33年(1958年)11月第三次南極越冬隊員、観測隊員、乗組員を乗せて 南極へ向かった宗谷は南極の昭和基地近くに着くとすぐにヘリコプターを飛ばして昭和基地上空へ、二つの動く物体を発見。もしかして????昨年救出出来なかった樺太犬『タロ、ジロ』が元気で隊員の迎えを待っていました、この明るいニュースは日本へいち早く伝わりました。生きること、たくましい生命力に日本国民が驚かされ、又勇気づけられた思いでした。後に、タロ、ジロ物語として映画が制作され、国民のアイドル的にもなり、南極への関心が一段と広がりました。南極大陸は南極条約により「平和目的の科学活動」に限り南極大陸内での自由な活動を保証しています。たとえ、領土権の主張がなされている地域でも南極条約を守る限りビザが不要で自由に活動できます。南極は国境に関係なく自由な活動を願う人類の未来の姿を示しています。南極条約は1959年12月、日本を含む12か国が締結、1961年6月発効しました。「宗谷」による観測は第6次隊1962年で終わりました。4年間の中断の後、日本の南極観測は恒久的に行われることになり、1966年新観測船「ふじ」昭和基地に初めて接岸。昭和基地再開18人越冬(第7次隊)。 500トンの物資が運べる「ふじ」により、昭和基地には次々に新しい建物が建てられ、基地での観測と生活は充実していきました。1968-1969年には昭和基地から南極点基地までの雪上車による往復旅行に成功し、1970年には「みずほ観測拠点(後のみずほ基地)」が置かれ、内陸地域の調査の拠点となり、多くの知見が得られました。1983年、3代目の観測船「しらせ」 19,000トン(満載排水量)が就航し、運べる物資も1000トンになりました昭和基地の建物第1次観測隊が建設した建物は4棟174m2でしたが、1996年1月現在で
は、3階建ての建物も含めて49棟約5185
m2となっています。発電・燃料は基地のエネルギー源は電力と燃料ですが、この30年間でともに10倍になりました。300KVAの発電機が稼動し、年間430キロリットルの燃料が消費されています。第6次隊までは1日1人あたり10リットル程度の水しか使えませんでしたが、1996年1月現在ではダムをつくったり、貯水槽を整備したりして100リットル程度の水を使えるようになりました。通信は文明社会と隔絶された基地では、通信連絡が唯一の開かれた窓です。当初、短波による送受信のみでしたが、1981年以降、人工衛星を利用したインマルサットシステムを導入してこれにより、電話・ファックスなどの利用が可能となり、情報の量と質は格段に増大し、改善されました。食糧隊員の健康を保持する食糧は越冬隊員1人に約1トンです。肉、魚、野菜などは冷凍品が主であり、これを1年間保存するための冷凍庫が完備しています。また、新鮮な野菜としてカイワレダイコンやモヤシなどが栽培されています。装備小型雪上車による初期の旅行では、宿泊にはテントを用いましたが、現在ではベッドつき雪上車や居住カブースを利用し格段に改善されています。防寒用衣類も充実してきています。昭和基地で観測された最低気温は、1982年9月4日の-45.3度、最高気温は1977年1月21日の10.0度で、年平均気温は-10.6度となっています。もっとも寒い月は8月で平均気温が-20度前後、逆に暖かい月は1月で平均気温-1度前後です。昭和基地のもっとも暖かい時期は、北日本のもっとも寒い時期と同じ程度の気温だということです。 昭和基地では6月1日から7月14日頃までの約1か月半、太陽は現れず極夜の季節となり、12月1日から1月中旬までは夜のない季節、10月初旬から2月下旬までは夜でも暗くならない白夜の季節です。1998年には日本隊ではじめての女性越冬隊員(2名)参加(第39次隊)しました。昭和59年日本観測隊が世界で初めての大発見「オゾンホールの破壊」を、地球を守るオゾン層に穴があいていることを発見。環境破壊の深刻さを世界に警告した。フロンガスの使用中止、炭酸ガスの規制などの地球温暖化防止も唱えました。鳥でありながら飛べないペンギンの生態、オーロラの解明、南極の岩石から地球の生い立ちの解明のてがかり等の多くの研究がなされています。45年たった現在南極の昭和基地は世界に誇る観測基地になりました。2003年にはNHKが南極局を開設 1年間の越冬放送を南極からオンエアーされました。現在は宗谷で得た貴重な経験を生かして日本の世界に誇る砕氷能力のある観測船第2代目しらせ』が毎年南極昭和基地へ越冬隊員、観測隊員、物資の輸送、観測に就航しています。氷海に綴じ込まれソ連のオビ号の助けを求めたころの宗谷の面影は今はありません「宗谷がオビ号に救援された」恩返しに998年には「初代しらせ」がオーストラリアの観測船「オーロラ・オーストラリア」を救出しております。新南極観測船「第2代目しらせ」(約12500トン砕氷艦5003))が2009年11月10日に初の南極航海に向け、第51次南極観測隊を乗せて東京・晴海埠頭を出航しました。南極地域観測の観測データは 宙空系はオーロラ光学総合観測等、気水圏系は特殊ゾンデ観測、ドームふじ高層気象観測、二酸化炭素濃度連続観測等 地学系は超伝導重力計データ、短周期・広帯域地震計による連続観測、重力、地磁気、標高等 生物系は専用観測船による南極海氷縁域での海洋観測、大型動物グループ、国際バイオマス研究観測、海氷域の生物多様性観測等 通信総合研究所は地上気象観測、高層気象観測、直達日射観測、紫外域日射観測、オゾン観測等、国土地理院は基準点測量、GPS連続観測、水準測量、地磁気観測、空中写真等 海上保安庁は海洋、潮汐等設営は太陽光発電量、風力発電機の各種データ、汚水処理水の水質、生活廃棄物の排出量、作業棟ソーラーパネルの発熱量、建物周りの雪堆積量等等の多数の分野の項目について観測研究が現在も続いております。昭和32年1957年東オングル島に4棟の建物を建て「昭和基地」を設立、11人が越冬して始まった当時は、トイレなどの施設もなく、山小屋同然の生活でした。半世紀を越した今、昭和基地は60棟を越す建物が建ち並び、世界有数の科学基地になりました。衛星電話、床暖房の個室、毎日入れる風呂、水洗トイレなど快適な日常生活が送れるようになりました。現役を退いた宗谷4,849トンは現在東京お台場の船の科学館に展示され、一般に公開されています。当時の様子を偲ぶ事が出来ます。お台場へ行った折りは『宗谷』の見学をしてみてはいかがでしょうか、よくぞこの船で南極まで行けたものだねとの思いもいたします、船内に当時の展示物もあります、1999年11月に船体、船内の塗装も終わりお化粧直しで少しは若返った宗谷に出会えます。宗谷とのデートスポットは、JR新橋駅よりモノレール東京臨海新交通システムの『ゆりかもめ』に乗車して、船の科学館駅で下車です。−50度の極寒の地で、100mのブリザードの吹き荒れる純白の雪と、氷の未知なる大陸での研究、観測に心よりエールを送ります。そして唯一つの未知なる世界、南極大陸が世界平和の為に研究、利用され、人類に役立つことを願っています。

このホームページで使われているテキスト、図版、写真等は『国立極地研究所、「南極観測のホームページ」の提供』許可を得て掲載致しております。

お台場『船の科学館』の初代南極観測船『宗谷』ヘリコプター発着甲板 お台場『船の科学館』の初代南極観測船『宗谷』平成15年10月18日HP管理者撮影古めかしい中にも威厳を感じる宗谷の操舵室
お台場『船の科学館』の初代南極観測船『宗谷』平成15年10月18日HP管理者撮影古めかしい中にも威厳を感じる宗谷,1999年11月に船体、船内の塗装も終わりお化粧直しで少しは若返った宗谷
サンポート高松グランドオープン1周年記念イベント。南極観測船・砕氷艦「しらせ」の艦内見学
【日時】砕氷艦502「しらせ」艦内見学2005年10月1日(土)2日(日) 9時〜16時【場所】サンポート高松2万トン級バースにてHP管理者撮影写真です。
第2代目しらせ(砕氷艦5003)
2009第51次南極観測隊

新南極観測船「しらせ」(約12500トン)が2009年11月10日、初の南極航海に向け、東京・晴海埠頭を出航しました。真新しい塗装の甲板上では、午前11時前から出航の式典が行われた。
現在南極まで観測と物資の輸送に活躍しています第弐代目しらせです。



日本の南極観測

宗谷については「『奇跡の船』と呼ばれた初代南極観測船『宗谷』」という
ページに非常に詳しく、感動的なエピソードとともに述べられています。

南極・北極科学館